暗闇に「ジュピター」が流れた…。 [おくすりばこ]
その連絡は、9/3(金)の夜開け前にやってきた。
午前3時過ぎ、トイレに入っていると、
暗闇の中から「ジュピター」が聞こえてきた。
2階の電話の着信曲だ。もたもたしていたら、切れた。
こんな時間の電話、あまりいいことの訳がない。
続いて、携帯電話が鳴る。
父が入所している施設からだ。
覚悟を決めて、電話に出る。
父の呼吸が止まっている、という。
午前2時の見回りでは、確認できた呼吸が、午前3時には、止まっている。
主治医に連絡をして、今、こちらに向かっているところ、だそうだ。
この状況が、何を意味するのか、分かっているのだけれど、
念のため、訊く。
「それって、つまり、死んじゃったってことですか?」
「そうです。」
主治医が駆け付けてくださっているのは、死亡確認をするためだ。
先生が見えられたら、改めて電話をいただくことにして、
姉と兄に電話を掛けた。
父がその施設に入所したのは、7年前の春。
父は、すでに目が見えなくなっていて、自宅での生活は限界が来ていた。
ずっと施設を探し、申し込んでもいたが、なかなか順番は来ず、
困り果てた頃、見つかったのがその施設だった。
スタッフの皆さんは優しく、父の状況に合うように、考えてくれた。
この7年間、いろいろな状況があり、大変なことも多々あったけれど、
何とか父らしく過ごせてきたのも、ここがあったからこそだった。
昨年くらいから、かなり衰えが顕著になり、
今後の対応について、何度も相談した。
もしもの急変の時に、延命措置をするかどうか?
私達の答えは、「NO」だった。
この施設では、家族が望めば、ここで最後の看取りまで、
してくださるという。
まだ、時間がある時点で、そのことは決めていた。
実は、春に、三線おやじが肺炎で入院をした日に、父も熱発していた。
翌日、肺炎だという電話があった。
病室でその報を受けた私は、動揺した。
その日から、父の容態の電話は姉に掛かることになった。
治療の甲斐あって、父は、小康状態になった。
その後、三線おやじの容態が、あまり思わしくなくなってきたとき、
またもや、父が熱発した。
どうして、夫と実父がこんなことを競い合うんだろう?と思った。
「もしも、重なったらどうしよう?」
それが気がかりだった。
意外にも、「若ちゃ(父のこと)」は強かった!
それでも、その後も2~3週間に1度位の割で、
気がかりな情報がもたらされた。
三線おやじの四十九日、お盆の帰省など、
常に「重ならないか?」気になりながら、過ごした。
8月の盆月が終わり、送り火を焚いて、三線おやじを送った。
9/1(水)は防災訓練があった。
その夜中、友人のお父様の訃報が入った。
2ヶ月前に、良くないことを打ち明けられて、
16年前の、母の最後の日々とダブらせながら、心配していたのだった。
友引が入ったので、5日お通夜、6日葬儀になった。
お悔やみのメールを送りながら、その友人の顔を見に、
5・6日は、清水に通うつもりでいた。
9/11(土)は、岡山の法事
(三線おやじの父・25回忌と、叔母の1周忌)に
行くことにしていた。
8月は、兄たち家族が父を訪ねてくれたので、
姉とは、お彼岸頃に父のところに行こうと約束していたけれど、
なぜか、岡山に行く前に、父を訪ねたくなった。
9/2(木)は、川勝県知事が藤枝に見えるので、
ちょっと追っかけをすることになっていた。
2日の夜、知事来藤のブログ記事を書きながら、
明日3日、父のところに行こう!と思った。
でも、疲れてしまったので、記事1つ書けたところで、ダウン!
後は翌日に…。
その夜中に、「ジュピター」が流れたのだった。
2010年9月3日(金)午前3:30
ぱらぽんの実父、「若ちゃ」は、天に召されました。
午前3時過ぎ、トイレに入っていると、
暗闇の中から「ジュピター」が聞こえてきた。
2階の電話の着信曲だ。もたもたしていたら、切れた。
こんな時間の電話、あまりいいことの訳がない。
続いて、携帯電話が鳴る。
父が入所している施設からだ。
覚悟を決めて、電話に出る。
父の呼吸が止まっている、という。
午前2時の見回りでは、確認できた呼吸が、午前3時には、止まっている。
主治医に連絡をして、今、こちらに向かっているところ、だそうだ。
この状況が、何を意味するのか、分かっているのだけれど、
念のため、訊く。
「それって、つまり、死んじゃったってことですか?」
「そうです。」
主治医が駆け付けてくださっているのは、死亡確認をするためだ。
先生が見えられたら、改めて電話をいただくことにして、
姉と兄に電話を掛けた。
父がその施設に入所したのは、7年前の春。
父は、すでに目が見えなくなっていて、自宅での生活は限界が来ていた。
ずっと施設を探し、申し込んでもいたが、なかなか順番は来ず、
困り果てた頃、見つかったのがその施設だった。
スタッフの皆さんは優しく、父の状況に合うように、考えてくれた。
この7年間、いろいろな状況があり、大変なことも多々あったけれど、
何とか父らしく過ごせてきたのも、ここがあったからこそだった。
昨年くらいから、かなり衰えが顕著になり、
今後の対応について、何度も相談した。
もしもの急変の時に、延命措置をするかどうか?
私達の答えは、「NO」だった。
この施設では、家族が望めば、ここで最後の看取りまで、
してくださるという。
まだ、時間がある時点で、そのことは決めていた。
実は、春に、三線おやじが肺炎で入院をした日に、父も熱発していた。
翌日、肺炎だという電話があった。
病室でその報を受けた私は、動揺した。
その日から、父の容態の電話は姉に掛かることになった。
治療の甲斐あって、父は、小康状態になった。
その後、三線おやじの容態が、あまり思わしくなくなってきたとき、
またもや、父が熱発した。
どうして、夫と実父がこんなことを競い合うんだろう?と思った。
「もしも、重なったらどうしよう?」
それが気がかりだった。
意外にも、「若ちゃ(父のこと)」は強かった!
それでも、その後も2~3週間に1度位の割で、
気がかりな情報がもたらされた。
三線おやじの四十九日、お盆の帰省など、
常に「重ならないか?」気になりながら、過ごした。
8月の盆月が終わり、送り火を焚いて、三線おやじを送った。
9/1(水)は防災訓練があった。
その夜中、友人のお父様の訃報が入った。
2ヶ月前に、良くないことを打ち明けられて、
16年前の、母の最後の日々とダブらせながら、心配していたのだった。
友引が入ったので、5日お通夜、6日葬儀になった。
お悔やみのメールを送りながら、その友人の顔を見に、
5・6日は、清水に通うつもりでいた。
9/11(土)は、岡山の法事
(三線おやじの父・25回忌と、叔母の1周忌)に
行くことにしていた。
8月は、兄たち家族が父を訪ねてくれたので、
姉とは、お彼岸頃に父のところに行こうと約束していたけれど、
なぜか、岡山に行く前に、父を訪ねたくなった。
9/2(木)は、川勝県知事が藤枝に見えるので、
ちょっと追っかけをすることになっていた。
2日の夜、知事来藤のブログ記事を書きながら、
明日3日、父のところに行こう!と思った。
でも、疲れてしまったので、記事1つ書けたところで、ダウン!
後は翌日に…。
その夜中に、「ジュピター」が流れたのだった。
2010年9月3日(金)午前3:30
ぱらぽんの実父、「若ちゃ」は、天に召されました。
2010-09-09 16:16
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