初めて「藤枝大祭」を観に行ったよ! [元気なまち藤枝]
今年は、3年に一度の「藤枝大祭り」の年。
「長唄による地踊り」は日本一なのだそう。
パンフレットによりますと…、
江戸時代、田中城の鬼門を守る青山八幡宮の大祭に、
藤枝宿の屋台が、神輿渡御の行列に付き従ったのが始まりです。
明治4年(1871年)の廃藩置県で田中藩が解体され、
藤枝宿の総社飽波神社(延喜式内社)大祭に、
この屋台の引き回しが移行されました。
飽波神社大祭は、寅・巳・申・亥の年に施行されます。
現在ではこの大祭を「藤枝大祭り」と呼んでいます。
明治までは、江戸で最も発展した「三層高欄型山車」と、
唐破風屋根に踊り舞台を備える「踊り屋台」とが結合する
独自な山車屋台でした。
これが、文明開化の象徴でもある電線と電話線の敷設により、
三層高欄部分がどうしても電線と電話線にかかってしまうため、
やむなく踊り舞台(幕引き屋台)のみの形態にかわりました。
大正5年(1916年)に、当時中央の長唄界で活躍していた
左車出身の六代目吉村伊十郎(長唄家元)を迎え、
現在のような長唄による地踊り披露という形態が整えられました。
伝統ある「左車」の屋台です。
大祭りを観に繰り出したのは、初めてなので分からないことばかり。
ですから、今回は、写真を撮った屋台を並べるだけです。
3年後、次回には、もっとくわしく説明できるようにがんばります。
「長楽寺」です。
「千歳」です。
「栄」です。
「木町」です。
よく見るとこの屋台、黒塗りなんですよ!
「岡出山」です。
小枝さんからいただいた画像です!
「下伝馬」です。
「上伝馬」です。
「上伝馬」のいなせな様子。
最後は再び「左車」の屋台の後ろで。
お祭りは、礼に始まって礼に終わるようです。
屋台も組ごとに工夫が凝らされているようです。
全部で14組あります。
次回は、全てアップしたいものです。
3年後をお楽しみに!!
写真は、各組青年部代表14人衆!
「藤枝市政要覧」より拝借しました。
「長唄による地踊り」は日本一なのだそう。
パンフレットによりますと…、
江戸時代、田中城の鬼門を守る青山八幡宮の大祭に、
藤枝宿の屋台が、神輿渡御の行列に付き従ったのが始まりです。
明治4年(1871年)の廃藩置県で田中藩が解体され、
藤枝宿の総社飽波神社(延喜式内社)大祭に、
この屋台の引き回しが移行されました。
飽波神社大祭は、寅・巳・申・亥の年に施行されます。
現在ではこの大祭を「藤枝大祭り」と呼んでいます。
明治までは、江戸で最も発展した「三層高欄型山車」と、
唐破風屋根に踊り舞台を備える「踊り屋台」とが結合する
独自な山車屋台でした。
これが、文明開化の象徴でもある電線と電話線の敷設により、
三層高欄部分がどうしても電線と電話線にかかってしまうため、
やむなく踊り舞台(幕引き屋台)のみの形態にかわりました。
大正5年(1916年)に、当時中央の長唄界で活躍していた
左車出身の六代目吉村伊十郎(長唄家元)を迎え、
現在のような長唄による地踊り披露という形態が整えられました。
伝統ある「左車」の屋台です。
大祭りを観に繰り出したのは、初めてなので分からないことばかり。
ですから、今回は、写真を撮った屋台を並べるだけです。
3年後、次回には、もっとくわしく説明できるようにがんばります。
「長楽寺」です。
「千歳」です。
「栄」です。
「木町」です。
よく見るとこの屋台、黒塗りなんですよ!
「岡出山」です。
小枝さんからいただいた画像です!
「下伝馬」です。
「上伝馬」です。
「上伝馬」のいなせな様子。
最後は再び「左車」の屋台の後ろで。
お祭りは、礼に始まって礼に終わるようです。
屋台も組ごとに工夫が凝らされているようです。
全部で14組あります。
次回は、全てアップしたいものです。
3年後をお楽しみに!!
写真は、各組青年部代表14人衆!
「藤枝市政要覧」より拝借しました。
2010-10-06 23:29
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コメント(3)
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知らぬ間に沢山の屋台を撮影されていたぱらぽんさん、流石。
私のを追加してくれてありがとう。
お気に入りの、後の小さい屋台(飲み物などが入っている)可愛かったですね。いなせな様子までありがとう~
次回は、一緒に踊りませんか?(笑)お付き合いありがとう~
by NO NAME (2010-10-08 08:42)
上のは小枝です。
by 小枝 (2010-10-08 08:43)
小枝さん、毎日お世話になりました。
大きな屋台の後をついていく、サポーターのような屋台!
かわいくて惚れちゃいました!!
次回は、14組全て、細かくレポートしたいですね~。
歴史や文化などを、勉強しなくちゃ!
24日までに、郷土博物館に行ってみようかな!
by ぱらぽん (2010-10-08 19:50)